兎は地球で床に就く

システムエンジニア予定の無職ニートブログ

なーーーーーーーーんもせえへん!www

 こんばんは。InDexです。

 今日は休日でした。

 昨晩は仕事がキツすぎて酒に逃げてブログを書けずじまいでした。

 昨日の仕事終盤、こんなにキツイなら酒に逃げても仕方がないよな、と自己正当化していました。しかし、自分を叱咤する自分からそうやって逃げていたら今までの人生と同じだよ、と諫言を貰いました。

 まぁ、酒に逃げたんですけど。

 仕事中は緊張感があったので幾分か理性も残っていたのですが、実家に戻ると理性もどこへやら。感情が体を支配して簡単に酒に溺れました。

 酒の味は別に好きなわけではないです。ただ、あの酩酊感が好きなんですよね。

 酒そのものに価値を感じているわけではなく、酔う状態に価値を感じているわけです。

 意味もなく陽気になれて、酒に酔ってしまったのだから何もできない、という罪悪感を消してくれるんです。

 こういうの何て言うんですかね。自己正当化?自己弁護?

 ただ、自分を堕落させることは間違いないです。

 まぁでも、それくらい昨日は酷い1日でした。

 食品工場なので食品の盛り付けとか行うんですよ。で、昨日は1日中ずぅぅぅぅぅっと食品の盛り付けをしていました。

 温度の低い食材だったので手が凍りました。低体温症で指を切り落とすことになるんじゃないか、って冗談交じりで思ってました。

 それを8時間です。単純作業を延々と繰り返すって本当にキツイです。

 というか、こんなことをブログに書いたような気がするんですが、最終更新が25日ということは勘違いだったようですね。

 

 さて、それじゃあ今日の振り返りをしていきましょう。まぁ、今日の見出しをみる限り分かり切ってることですが。

 

小さな積み重ね。その重要性

 今日は午前8時に目が覚め、ベッドからでたのが9時ごろでした。それからは動画サイトを巡回し、すき家で昼食を摂り、その食事風景をビデオカメラで撮影しボイスロイド用の動画素材にしようとしてました。

 それからはスマブラのトーナメント戦をしたり、昼寝をしたり、そうそう。初めてAKIRAを見ました。

 オタクの必修科目と言っていいアニメ映画ですけど、何となく機会を逸し続けて見てなかったんですよね。

 感想としてはAKIRAかと思った奴がAKIRAじゃなかった、が3回くらいあった。

 作画が凄かった。

 治安が悪すぎる。

 ってな感じですかね。これまで見てきたアニメの中にも、これってAKIRAを意識してたんだなぁ、みたいなデジャブを感じる部分もありましたけど、特に書くことでもないですね。

 ただただ、これが作られたのが数十年前って思うとすげぇなぁ、と思います。

 まぁ、たまにようつべのコメント欄で見るのですけど「数十年前のアニメなのにこんな動いててすごい」みたいなコメントを見るんですけど、逆に放送数が限られ力を注力できる人材がいて、まだまだ業界が未発達で情熱に溢れていた人がいた昔の方が作画はいいんじゃないかな、と思います。

 セル画もいいなぁ、と思いますが、あの濃い絵の具の感じより、やはり若干淡い色合いの方が私の目に優しいですね。

 なんだか乱文になったのでここらでAKIRAの話は終わりです。打ち切りです。

 

 AKIRAの後は昼寝したり、これまた動画サイト巡ったり、昼食に撮影した動画を見返したりしてました。

 そして、今に至ります。こうして文に起こしてみると色々やってるように見えるんですが(見えないけど)ほとんど受け身のことにしかやってないんですよね。

 なので何の身にもならないし、すぐに忘れてしまうどうでもいい事柄ばかりです。

 そもそも、この休日にやろうとしていたのはボイスロイドの動画編集です。私はそれをやっていません。

 やるべきことは明確なんです。ボイスロイドの動画編集の講座をしてる動画を見つけて、それを真似て、自らに吸収する。それだけです。

 私の体と脳みそはどうにも破損しており、主体的な行動を取ろうとすると途端に動きが鈍り、他のどうでもいい行動に身を委ねようとするんですよ。

 どうでもいい行動っていうのは時間を無為に潰す行動です。ネットサーフィン、昼寝、動画サイト巡り、ゲーム、等々です。

 私は集中力が雀の涙ほどしかないのでそれらもすぐにやめて、また別の受け身でも時間を潰せるものに移っていきます。

 だから短い時間にたくさんのことをループしてるんですよね。何の実入りもない行動をただただ繰り返して、今の私がいます。

 ちょっと話が変わるんですけど、武井壮の話をします。

 どこかで、多分まとめサイトで見た情報なんですが、武井壮は1日に絶対Wikipediaの自分の知らない領域の記事を読むそうです。そうして常に新鮮な情報を脳内に入れる、という習慣をしてるそうです。

 私はこれを読んで、素直に感嘆しました。私にとって新しいことをするのには途轍もない労力を必要とします。同じWikipediaというサイトを使っていたとしても、新しい情報を入れるというのは本当に身を削るほど私には辛いことです。

 この身を削るほど辛い、というのは、私のこれまでの積み重ねがそうさせているんですよね。

 自堕落な日々を過ごした。その日々が私の体を錆びさせ、脳を鈍化させ、新しいことに対する気持ちを失わさせた。

 こんな自分ではいけない。そう焦燥感ばかりが募り、募り、募り、それでも何もしない。たまに酒に逃げては焦燥感を消す、毎日睡眠を摂っては焦燥感を薄れさせる。

 仕事の日々も焦燥感を薄れさせる一因ですね。仕事のことを考えない日はありません。このままだと出世して、管理職になり、より時間がとられるようになります。

 そうなると一層何もできなくなり、動画投稿で収益を稼ぐ、なんて話も無くなります。

 どこかの誰かになりたいけど、何もしない。このまま無為な日々を過ごしていると、手遅れになる。

 そう思っても、何も変えられない。

 

 私がそんなことを初めて思ったのは、たぶん高校2年生あたりだったと思います。

 高校2年生だった自分はどこかの集団に属して働くのが嫌で、ラノベ作家にでもなることを夢見ていました。

 ○○日までに○○賞に応募する!!とか、毎日○○ページ書く!!とか目標を掲げていました。

 しかし、私は何もしませんでした。

 この人生は何かを成すには時間がありすぎるんです。そして何かを成そうとするには、既に手遅れな体と脳になっているんです。

 

 それでも、手遅れなんじゃないか、って思っても、嫌で嫌で嫌で。自分を変えようとする自分がいて。

 でも自分を変えようとする自分は余りにも無力で。このまま感覚を鈍らせて、焦燥だけを友人にしながら死んで逝く自分が強すぎるんです。

 

 じゃあ。それじゃあ。試しに仕事を辞めてみれば時間ができて、何かに打ち込めるんじゃないか、と思う時もあります。

 ですが、私は時間ができてもやらないんです。なぜなら、私がやらない人間だからです。

 ちょっと前。1年か2年前くらいです。

 私はVtuberにハマっていました。しかしVtuberの配信というのは受け身です。コメントは多少能動的かもしれませんが、配信者のリアクションに対して思ったことをコメントしているだけです。

 簡単に言えば、配信者がいなければ、何もできない存在なのです。自分では何も生みだせないことをしてました。

 別に悪いことではありません。配信者はコメントが来て盛り上げてくれる人がいて、嬉しいんですから。それに視聴者が喜びを見出すことも何ら悪いことじゃありません。

 悪いこと。不健全なのは、視聴者にとって、自分にとって、私にとっての居場所がそこにしかなかったからです。

 私からVtuberの視聴者、という肩書きを抜いてしまったら何も残りません。そこにいるけど何者でもない、有象無象がいるだけです。

 私はこの状況を不味い、と思いました。配信という簡単に2,3時間も消費するコンテンツにハマるのは不味い。

 ここから抜け出して創造的なことをしよう、と思って視聴者であることを辞めました。その間、私が作ってきた視聴者同士のコミュニティや繋がりを全て放棄して。

 

 そして残ったのが私です。Vtuberに熱を上げていた、その果ての燃え滓が私です。

 まぁこの他にもVtuberを見るのを辞めた理由はあるのですが、それについてはまたどこかで話せたらいいな、と思います。

 ともあれ、何かにハマっていた時間を潰しても、新しく創造的な行為をする時間は生まれない、ということです。

 物事はそう極端ではないんですね。

 仕事を辞めたからといって趣味に没頭できるわけでもないし、就職したからといって趣味ができなくなるわけではない。

 やる人はやるんです。忙しくても、時間を作り、僅かな時間でも情熱を注げるんです。

 

 結局のところ。

 私の何もしない原因は。

 私に何もないから。

 それだけです。

 

 何かを成せる、何かに対する情熱がそもそもないから。欠けているから。

 だからどうでもいいことと処理する。

 その癖どこかの誰かになりたい、という承認欲求だけは肥大化してるから焦燥感だけは一丁前にある。

 そして、どこかの誰かになるためには功績が必要です。

 漫画家なら、漫画を描いて漫画家になります。

 アニメーターなら、アニメを描いてアニメーターになります。

 小説家なら、小説を書いて小説家になります。

 

 でも私は、ラノベ作家になりたくてもラノベを書かず、動画投稿者になりたくても動画を作らず、ただただ時間を浪費するだけでした。

 

 別に、今日起こったことなんですけど、あまりこの件とは関係ないことなのかもしれないんですけど。

 今日スマブラでトーナメントをしていたんです。最大64人とトーナメント戦で争い、1位を決める奴です。

 私は2回戦で配信者と当たりました。私は配信者に何とか勝ちました。

 私は喜び勇んで配信者の名前をようつべで検索し見つけました。DVRがオンになっていたので巻き戻し、私が勝利した瞬間、配信者が敗北した瞬間を見ました。

 

 私はその配信者に勝ったんだと、敗北者である配信者のリアクションを見て実感しました。歓喜が胸の底から噴き出しました。痛快、とはこのことを言いました。

 まぁ、誰かに勝つとは嬉しいものです。テストの点数で友人に勝てたら嬉しいし、同僚が落ちた資格に自分が受かれば自己肯定感が上がるし、ゲームで人に勝てたら、敗北のリアクションが見られれば嬉しいし、何らおかしいことはない、はずです。

 

 ただ、空虚な私に当てはめて考えてみると、配信者、というどこかの誰かに勝つことで、何もない空虚な私の心がスッとした、ってことなのかな、と。

 貧乏人が金持ちの凋落人生を嘲笑うように、順風満帆な人生を歩んでいる人が突然交通事故で死んだら胸が梳くように、他人の不幸は蜜の味。

 俺が喜びを感じて、新鮮な感情が発露するのって、他人の不幸を見た時だけなのではないかって。空虚でゴミのような自分が嫌になります。

 シャーデンフロイデ、とドイツ語の言葉もあるように、日本語の他人の不幸は蜜の味、という言葉もある通り、どこか空虚な人が、何かを持ってる人を羨み、嫉妬して、失墜するのは、古今東西に溢れていることなんでしょうね。

 

 ドラえもんのしずかちゃんのお父さんが、今から結婚式を挙げるしずかちゃんに対し、のび太のことを「人の幸せを共に喜び、人の不幸に悲しめる人間」と評しており、今ではそれがどれほどすごい美徳なのか分かります。

 まぁのび太は普通に不幸を笑える人間だと思いますが。

 

 と、まぁ、もう書くことも無くなりました。

 私は空虚で、他人の人生を嘲笑う最低の人間、ということです。

 

 それはもう、現状なのでどうしようもありません。

 なので未来の自分に託すわけです。

 現状が最低なのだから、ちょっと浮上するだけでも大分違うんじゃないかね?と。

 一歩踏み出そう。俺。

 せめて動画編集の講座くらい見ようぜ。1秒だけでもいいんだ。

 見ればたぶん脳みその側坐核って部分が働いてやる気もでるからさ。

 とはいってももう22時30分だ。明日の仕事のためにストレッチして寝ろ!!

 よし!!終わり!!

 あ、でももうすぐ初めて5000文字超えそうなんでもう少し別の話をして文字数を稼ごう!!

 

 そうだな。

 私がたまにやっているようつべでも配信についてでも話しますか。

 私はたまに配信をします。主にゲーム配信です。

 私は私の声があまり嫌いではなく、自分のアーカイブを作業用BGMにする、なんてこともあります。

 加えて自分がゲームに対しとったリアクションを見直し、ここは面白かったなぁ、なんて振り返りこともあります。

 でも、配信とはいっても一つだけ、普通の配信と異なる部分があります。

 それは配信だけど非公開にしながら配信してる点です。

 非公開にしているのだから当然人の目には触れません。なのでコメントももちろん付きません。誰の反応も返ってこない配信をしているわけです。

 公開しながら配信をする時期もあったのですが、コメント会話しながらゲームをするのはコミュ障な私にはハードルが高かったのです。

 人の目を気にしながらゲームできるほど、胆力がなかったんですね。

 だから私は非公開にして、1人で楽しむために配信をしています。

 

 まぁ配信についてはまた今度どこかで話すとしましょう。

 何となく達成できた5000文字を噛みしめながら、この5000文字には何の意味もないことを悟りながら、眠ることにしましょう。

 ということで皆々様。

 ここらで兎は床に就かせていただきます。

 それではまた。