兎は地球で床に就く

システムエンジニア予定の無職ニートブログ

義務の話

 こんばんは。InDexです。

 今日は訓練校が休みだったので平日なのにグゥタラしています。

 で、本日お話する内容はとあるブログについての話です。

 そのブログの話をするにはまず、私がなんでこのブログを立ち上げたのか、という話に遡ります。

 私は当時、今から大体半年前くらい?にブログを開設しました。12月18日に最初の記事を投稿しているのでほんとに半年前くらいでした。すごい記憶力だ。

 私がこのブログを開設したのはとあるブログに影響されたからです。

 そのブログの名前はまぁリテラシー的にというか、マナー的によろしくないと思うので出しません。

 そのブログは日々の日記みたいなブログというどこにでもあるようなブログでした。しかしその人はニートでした。前の会社がブラックすぎて体を壊しそうになり、次はブルーカラーの仕事に就くぞ、と意気込んでいる人でした。

 当時の私はいたく共感しまして、自分も始めるか……!!と思い立ったのが行動理由です。人に影響されて始めるってのもあるあるだと思うんですけどね。

 それで今日、いつものルーティン通りその人のブログを見に行ったら遂に転職活動が終わったのです。

 都度都度、自分の立場は明かさずに転職について声援を送っていたので今回も「おめでとう」と送りました。

 しかし内心はそうでもなかったです。自然におめでとう、という祝福の言葉が思い浮かんだわけでもなく、吉報があったのだから祝福しなければならない、という義務感の方が強かったです。

 私の性格は一言で言ってしまえば「他人の不幸が好き」「幸せそうな人が嫌い」なので祝福の言葉が出てこなかったのも当然っちゃ当然です。

 しかし、いつもならもっと不快感が出るはずなんですよ。自分より先に転職活動を成功させやがって、みたいな気持ちもなくはないんですよ。なくはないんですけど、ちっぽけな小さな芽程度しかなかったんです。

 とはいえ、祝福する気持ちはその芽程度もなかったんですけど。

 どうしてこんな心象になったんだろうって不思議に思いました。

 自分と同じ境遇だったからこそ今までの苦しみが理解できて、だからこそ不快感が沸かなかった。

 とか思ったんですけど、だったら素直に祝福する気持ちがあってもいいと思うんです。だからこんな前向きというか、人ができている理由ではないと思います。

 今のところ一番有力そうなのが「現実ではなく一つの物語として捉えていた」からです。

 現実ではなく、これは勿論誤りです。ブログを書いた本人は画面の向こうに存在しているんですから(ブログの内容全て虚実、という場合もありますけど流石にないでしょう)。

 しかし、私と彼のブログの人の接点は僅か文字だけなんです。SNSで繋がっている人のように肩書を明かしたり趣味を明かしたり、そういったこともなく、本当に文字だけなんです。

 だから向こうの人への現実感というか、存在感というか、そういったモノが薄く感じられるんです。

 まぁ言ってしまえば物語の中の住人、フィクションの世界と言った方が話は早そうですね。

 フィクションの世界、小説とか映画とか漫画とか、そういったモノを鑑賞して感情を動かされることがあります。感動したり、興奮したり。しかし、私はどこかで分かっているはずなんです。この世界は虚構であると。

 だから必要以上の感情は持ち合わせない。必要以上の怒りや悲しみや喜びも感じえない(2行前で”私たち”ではなく”私”と指定しているのがポイントです。少なくとも私はそこまで感性が豊ではないのです)。

 だから、転職活動が成功した物語上の人へ、そこまでの嫉妬は抱きえない、という結論に至るのです。

 これは私自身の内面。人の幸せが嫌い。感性が鈍い。その辺が上手いこと混ざり合った結果、人の幸せなのにそこまで不快感を抱かなかった、ということになるのです。

 

 そうそう。この記事のタイトルは義務の話でしたね。

 私はそういった祝福だとか賞賛だとか、そういった感情はありません。私自身が幸せじゃないのでそこまでの余裕はないのです。

 しかし一般論の反応は流石に知っているので”○○しなければならない”という義務の反応は心得ています。

 転職活動が成功すれば心に一片もない祝福の言葉を送ります。

 しかし、それは自分の反応だけに留まらないのです。

 相手の反応をも、私の基準に当てはめてしまい、素直に受け取ることができなくなりました。

 最近私が仲良くなった訓練校の後輩がいるのですが、「(私)さんに話しかけて貰って良かったです」とか「今日は久々に楽しかったです」とかそう言った言葉を素直に受け止められません。

 私は私自身が人に好かれる性格をしていないと自覚しているため、そんな私を肯定するような反応はありえないと思っているんです。

 だから何が言いたいかと言うと、私の他人に対する反応のほぼ全てが「義務」に駆られたものであり、逆に他人から私に対する反応の全てが「義務」に駆られたものであると思ってしまうのです。

 相手の反応の全てを義務だと思うのは相手を信頼できない不信感によるものなのか、それとも私の内面によるものなのかは分かりません。

 私が幸せ(経済的に報われるだとか、家族関係が全部上手くいくだとか)になることでこの問題が氷解するのか分かりません。

 

 以上、義務の話でした。

 とりとめのない話でしたがすみません。上手く言語化できないし構造も歪ですね。

 

 というわけで皆々様。

 ここらで兎は床に就かせていただきます。

 その前に資格試験のこと考えねばねーばねば。