兎は地球で床に就く

システムエンジニア予定の無職ニートブログ

劇場版少女歌劇レヴュースタァライトの感想

 こんばんは。Indexです。

 これを書いているのは13時過ぎです。それでもこんばんは、です。

 さて、劇場版の感想を語っていきましょうか。

 

はじめに

 論文の第一章みたいな書き出しから行きます。

 まず、昨晩2周目のスタァライトの視聴を終え、今日劇場版を見ようと思いました。その時に思っていたことは、『劇場版で何するの?』です。

 戯曲スタァライトを二人で演じるという幼い頃からの夢を果たした華恋とひかり。

 この二人の物語は綺麗さっぱり終わっているんです。だからこれから何を……?ということですね。

 

 見終わった後は、『だからこその劇場版』だわ。

 って感想です。まさか劇場版をやる意味がないと思っていた理由が正に、劇場版をやる理由だったとは思いませんでした。

 スタァライトに出演するキャラクターは全員舞台少女です。

 舞台少女だからこそ、彼女たちはスタァライトを終わらせなければならないんですね。

 電車は次の駅へ向かう。

 では、舞台少女は?

 

一言で言えば、贅沢な映画

 劇場版少女歌劇レヴュースタァライトは一言で言ってしまえばこれに尽きます。本当に贅沢な映画だと思います。

 私の感覚だと、こういうテレビで1クールか2クールくらいかけてやったアニメが映画化する時って、上映時間は60分か90分くらいなんですよ。新海誠とか宮崎駿とか、そういう最初からアニメ映画を作る作品とは違うわけですね。

 ですが、劇場版少女歌劇レヴュースタァライトは120分で映画を作りました。

 上映時間だけでも贅沢過ぎます。

 他に贅沢な部分は、大胆な間の取り方、BGM無しの部分が多いって点です。

 

 大胆な間の取り方。これはその通りです。

 あらゆる場面で誰も何も話さない無音の間が多いんですよ。それが逆にいい方向に機能してるんですよ。

 BGMやSEでどんちゃん騒ぎをして盛り上げるとかはせず、あえて無音の間を持たせることで演出にしている。まぁ、『これをアニメ映画でやるのか』ってことですよね。

 

 BGM無しのシーンが多いってのは、この大胆な間の取り方に類似したことですね。

 ですが、だからこそ終盤が盛り上がるわけです。

 終盤の怒涛のレヴューシーン。レヴューシーンはずっと曲が流れていました。

 無音の間は何だったのか、って思うくらいBGMとSEで盛り上げまくってます。

 静と動のミックスの仕方……。これが素晴らしいです。

 

 なので劇場版少女歌劇レヴュースタァライトは贅沢な映画だなぁ、と思います。

 よくこれで企画通ったな……。

 観客のみんなが望んだからでしょうか……。

 

人物の掘り下げもしっかりと行っていくぅ~

 今回の映画は全員のキャラの掘り下げを行っていました。

 

 華恋ちゃんは小さい頃は実は、引っ込み思案で人見知りをする子供だった、ってのが衝撃でしたね。そこでひかりちゃんと出会い、人見知りを克服してどんどん明るい子になっていったってのがいいですね。

 そうしてひかりちゃん以外とも交友関係を広げる華恋ちゃんでしたが、そんな華恋ちゃんが面白くないのがひかりちゃんなわけです。着せ替えゲームをして他の友人と遊ぶ華恋ちゃんに嫉妬し、ひかりちゃんは自分が大好きな舞台を強制的に見せに行きます。その結果、華恋ちゃんはドはまりするわけですね。

 この辺が尊さマックスです。

 

 そしてそんなひかりちゃん。劇場版が始まってすぐ、ビビりました。神楽ひかり、まさかの二度目の退学。今度はマジで自主退学してました。テレビ版の時の退学はキリンの根回しによるものだったんでしょうが、今回はマジでひかりが自分で決めた退学です。どうやらまた華恋ちゃんには何も言っていなかったようです。じゃあなんで退学なんてしたのか……。

 答えは『華恋ちゃんのファンになるのが怖かったから』です。このまま華恋ちゃんの傍にいたら華恋ちゃんのファンになってしまい、舞台少女としてだめになってしまう。そこを危惧したわけですね。

 しかし、まひると対峙したことでその怖さとも向き合えるようになり、華恋ちゃんの前掛けを落とすことに成功するんですね。

 てか、劇場版ってテレビ版で敗北した人達が勝利してるんですよね。その辺も観客の見たかったシーン、か……。

 

 そしてもう一度華恋ちゃんへとシフトします。

 華恋ちゃんはひかりちゃんと一緒に見に行ったスタァライトに心奪われ、二人でスタァライトすることを目標に舞台を続けていきます。しかし、華恋ちゃんにとって舞台とは、ひかりちゃんそのものだったのです。スタァライトをひかりちゃんと演じたことで小さい頃からの夢は叶い、舞台には何も残らなくなってしまったのです。

 そして一度、華恋ちゃんは舞台の上で死にます。全てを持って挑んだ舞台であったからですね。

 けれど、もう一度華恋ちゃんは復活……再生産します。全てを舞台の上で燃やし尽くした舞台少女は、また次の舞台へと進むわけです。燃やしきっても尚、舞台少女は舞台少女であり続けるんですね……。

 ちなみに、華恋ちゃんのひかりちゃんへの想いは何も、二人でスタァライトを演じるだけではありませんでした。

 『ひかりに負けたくない』そんな闘争心もあったのです。

 だからこそ、華恋ちゃんは舞台の上に立ち続けることができたんですね。そしてだからこそ、本当にひかりちゃんが舞台を続けているのか不安だったのでしょう。約束を覚えているのか以外に、私と互いに高め合えるライバルとして居続けているのか、と。

 

 そうして自らの気持ちに気づいた華恋ちゃんは、ひかりちゃんとのスタァライトに終止符を打つため、ひかりちゃんと対峙するわけです。そして、二人のスタァライトは終わりました。

 二人の物語が終わった後、華恋ちゃんはなんだか誇らしげに「世界で一番からっぽだ」と呟きます。ひかりちゃんから始まった舞台少女のお話が、ここで終わったのです。しかし、ひかりちゃんとのスタァライトは終わったとしても、舞台少女としての愛城華恋の人生は終わっていません。

 華恋ちゃんはまた、舞台に上がることを決意し、物語は終わります……。

 

 テレビ版の長い長いエピローグと考えると、満足しかありません。そう考えると、エピローグとしても贅沢な映画でしたね。

 真矢クロとか、ふたかおとか、じゅんなななとか、まひるちゃんに関しては軽く触れていきましょう。

 

 真矢×クロはテレビ版の焼き直し、みたいな印象です。

 テレビ版との違いは、一人と一人で舞台に臨むのか、二人で舞台に臨むのか、そういった違いですね。

 最終的にはやっぱり、真矢はクロディーヌがいれば、クロディーヌは真矢がいれば、互いに成長できるよね、って感じに終わります。

 んで、一番個人的にビビったのは、真矢の舞台少女としての哲学です。

 自分は神の器(内面が空っぽだから何でも演じることができる)だからどんな役も演じることができる、とのたまっていたんですよ。しかし、クロちゃんはそんな真矢の仮面を無理やり剥がし、感情むき出しの真矢を引き出します。

 そんな神の器として余裕綽々に振る舞う真矢ではなく、感情むき出しで演技をする真矢を観客は求めている!と叫び、クロちゃんは勝利するわけです。

 この神の器→感情むき出しの演技っていう流れが、私の書いた桜坂しずくSSの流れのまんまなんですよ。マジでビックリした。

 

 双葉×香子は、相変わらず夫婦喧嘩してました。

 とはいえ、追う側、追われる側の立場が逆転しているんですね。

 双葉は舞台に生きる者なら目指す最高峰の劇団、国立第一歌劇団を目指します。その進路を、香子には一切相談せずに決めたんですね。そこが香子は気に食わなかった。

 テレビ版では香子を追い続ける双葉だったんですが、双葉の目指す先はさらにその先になってしまったんですね。舞台少女として、成長しているという証明なわけです。

 結果的に、先を行く者として待ってるぜ!ってな感じに終わります。

 わがままハイウェイは劇中歌でもかなり好きです。

 

 純那×ななは……一番熱かったですね。

 「殺して見せろよ大場なな!」って言ってた気がする。

 バナナは劇場版の中で一早く気づいていました。二年生の時に行った第二回スタァライト公演の出来が良かったのですが、だからこそ、その第二公演に囚われてしまう。その出来の良さが逆に未来へのプレッシャーとなり得る。

 けれど、舞台少女は舞台少女として前を向いて次の舞台へと登らなければならない。

 いくら前の舞台の出来が良くても、次の舞台には登らなければならないのです。

 そして、そのプレッシャーに潰されそうだったのが、純那ちゃんでした。

 恐らく純那ちゃんは作中の9人の中で最も才能が無い人間だと思います(聖翔学園に入学している時点で平均以上に才能はあるんでしょうけど)。だからこそ、一番次の舞台へ上がるのが怖い人間なのです。過去の栄光に目が眩み、次なる一歩に踏み出すのが怖くなってしまう。純那ちゃんが進学先に選んだのは普通の大学であり、確か文学部を目指していた気がします。しかしそれは逃避であり、客観的に舞台を眺めるという建前を使っていました。

 そんな純那ちゃんを、バナナは痛烈に批判するわけです。「私が眩しかったのは、愚かで主役を目指し続ける純那ちゃん」的なことを言っていました。主役になれるような器ではないけど、『生まれながらにして偉大な者もいれば、努力して偉大になる者もいる』というシェイクスピアの明言を引用していた純那ちゃんでは無いのです。

 そんな純那ちゃんは、バナナのその批判に引っ張られるよう、主役をもぎ取る舞台少女としての自分を覚醒させます。「そんな純那ちゃん、知らない!誰!!」と叫びながら、バナナは純那の前に敗北するのです。

 そしてこの時、バナナの再演が本当の意味で終わります。バナナもまた、舞台少女として次の舞台に進むのです。二人の道は別れ、いずれまた、新しい舞台で会おうと約束をし、バナナは涙を流します。泣いちゃった、と……。

 

 まひるちゃんはカップリングが抹消されました。

 今回レヴューで戦ったのはひかりちゃんでした。ひかりちゃんは華恋ちゃんのファンになるのが怖くて学園を自主退学しましたが、それは華恋ちゃんに何も言わずに姿を消しました。ここが、まひるちゃんの逆鱗に触れたんですね。

 どこまでも説明不足のひかりちゃんに激怒し、「大嫌いだったよ!」と目の前で叫ばれます。ここまで作中のキャラに嫌悪むき出しで叫ばれるのって、とても珍しい。マジでまひるちゃんが怖かった。

 しかし、まひるちゃんもひかりちゃんの気持ちは分かったのです。舞台に上がるのが怖い。才能豊かな人たちと一緒に舞台に上がるのが怖い。そんな自分を、華恋ちゃんは引っ張り出してくれた。恐怖を共有できる二人だったからこそできるレヴューなわけですね。

 

結局のところ、劇場版はやる意味があったの?

 まぁ、この話をする前に、愚かな私の自分語りをさせてください。

 私はレヴュースタァライトを見るのが2周目です。劇場版ではなく、テレビ版を見るのが2周目です。じゃあなんで1周目時点で劇場版を続けて見なかったの?と言われれば、実は見たんです。劇場版。

 ロンドロンドロンドの方ですが。

 はい。私は巷で話題になっている劇場版をロンドロンドロンドの方だと思ってました。ロンドロンドロンドはまぁ、よかったんですが、とはいえ総集編なんで「言うほどか……?」って気持ちは否めませんでした。阿呆だったなぁ……。

 自分語りはこの辺にして。

 

 さて、テレビ版を見た私は、やり残したことが無いし、劇場版をやる意味ってあったの?って気持ちでした。華恋とひかりのスタァライトは第二回公演で成就したわけですから。

 そして視聴後、ですが、この劇場版は……やる意味があったと思います。

 というか、劇場版はレヴュースタァライト完結編って感じなので、むしろ劇場版が無いとレヴュースタァライトは完成しないですね。

 この劇場版のコンセプトは、『舞台少女のその後』でしょう。

 舞台少女は舞台に生きる少女たちです。女の子の月並みな幸せを選ばず、舞台に生きることを選んだ少女たちです。スタァライトという舞台が終われば、また次の舞台へ進まなければならない。

 例えば普通のアニメなら、長い人生の中の数か月か、数年か、そこを切り取って終わるんですよ。世界を救うアニメなら、世界の危機を知って世界を救うところまで切り取って終わります。その後の平和な世界、という日常は続いていくんでしょうけど、世界を救う勇者としての人生はそこで終わっているんです。

 しかし、舞台少女は違います。スタァライトは偉大な舞台ではありましたけど、一つの舞台に過ぎません。舞台少女として生きる9人の少女たちは、スタァライトの次の舞台へと向かわなければなりません。

 勇者は勇者の役目が終わればそこで人生が終わりますが、舞台少女は舞台少女の役目が終わることがないのです。

 だから、『レヴュースタァライトは終わる』が『舞台少女は終わらない』んです。

 劇場版少女歌劇レヴュースタァライトは、レヴュースタァライトを完結させました。次なる舞台へ行くため、今立っている舞台を終わらせるため、すでに次の舞台に立ってしまっているため、終わらせなければなりません。

 その意味で、レヴュースタァライトは普通のアニメの枠に収まらない終わり方をしたなぁ……と感じました。本当にすごいアニメだった。劇場版がここまで高評価ってのも頷けるアニメですね。

 

キリンの役目

 映画序盤、全力疾走するキリンに草生えたんですが、なんだかんだでキリンはいい役をしていました。

 キリンはレヴューの中で狂言回しみたいな役回りでした。

 しかし劇場版の中では、舞台少女に熱を与える『役』が与えられました。

 舞台は演者と、そして観客がいるから成立する。観客が望むからこそ、舞台は開かれる。その意味で、キリンは舞台において必要不可欠な存在だったんですね。

 なんやかんや、今まで舞台の外側にいたキリンが舞台を構成する一部としてでてきたのはいいですね。

 

今まで見たアニメの中でナンバーワンかもしれない

 私にとってレヴュースタァライトはそういう存在になりました。

 かもしれない、とか書きましたが、ナンバーワンですね、これは。

 先ほど例に挙げた勇者の物語ではない点が凄く私の中で響きました。これからも彼らの物語は続いていきますけど、それは平和になった後の世界のお話です、ではないのが本当に新鮮でした。

 彼女らの一つの舞台は終わりましたが、また新たな舞台が始まります。舞台少女はこれからも続いていくのです。

 なんだろうなぁ。上手く言語化できてないですね。でも、こういうことなんですよ。こういう点が私の中でレヴュースタァライトをナンバーワンにした理由なんですよ。

 本当にすごかった……。

 

髪飾りを無くす演出

 今回の劇場版では、色々と映像で比喩表現するシーンがてんこ盛りだったと思います。野菜でできたキリンとか、トマトを拾って食べる舞台少女とか。たぶん私は一割も製作者側の映像の比喩的意図を汲み取っていないと思います。どうやら作中にある遥かなるエルドラドの脚本はできているらしいです。それくらい凝っている人なんだなぁ……。

 で、そんな目暗な私でも理解できた隠喩表現。それは終盤で出た華恋ちゃんとひかりちゃんの髪飾りの表現です。

 二人の髪飾りは、幼い頃にスタァライトを鑑賞した後、二人でスタァライトを演じようと決意した夢そのものです。だから二人の夢が叶うまで、二人は髪飾りをしないことは無かったんです。夢を忘れないよう、夢を抱き続けているという証明だからです。

 そしてその髪飾りは、二人のスタァライトが達成され、次なる舞台への気持ちを固めたことで外されます。

 つまり、髪飾りが無くなったのは、二人の夢が終わったことを表現しているんですね。

 恐らくこういう比喩的な表現をしっかりと理解してこそ、劇場版はさらに味わい深い作品となるんでしょう。

 今晩は劇場版の考察でも眺めながら終わりたいと思います。

 

 というわけで皆々様。

 ここらで兎は床に就かせていただきます。

 すごかった……。

 

ひかりに負けたくない

髪飾りが消える演出